精神分析療法における最終目的は「我慢と努力とあきらめ」を身につけるということです。
知ってた?
大切なことは、我慢と努力とあきらめを、させられて……ではなく、主体的に必要として、それができるようになるということです。
精神分析療法はそのようにその気にさせるものでして、いわゆる動機付け療法を含むものなんだね。
実は、我々は手に入らないものを手に入れ、可能な限り完全に近づくべく努力と我慢をしますが、しょせん不完全であることや手に入らないことを受け入れ、あきらめるために我慢と努力をするのです。
これを「受け入れる」といいます。
全ての問題の唯一無二の究極の解決策が、受け入れるということですが、そう簡単にできないことなので、私たちは努力と我慢をするのです。
そして、自らの努力と我慢が及ばないと知った時、あきらめざるを得なくなるのです。
自らの不完全を受け入れ赦すことができたとき、これを「回復」と呼ぶのです。
知らんけど……?(^_^;)
あれぇ〜?
実は、精神分析療法の目指すところは認知行動療法の目指すところとほぼほぼ同じなんだよね(^_^;)
知ってた?
巷に溢れるなんとか療法は精神分析療法から派生したものなので、原点はここにあるわけです。
でね……
ちなみに……、フロイトに精神分析治療を受けていた人が最も役にたったこととして述べているのが、なんと精神分析分析治療ではなく、「田舎暮らしと半身浴」だったと言っていて……(^_^;)
まぁ、ものごとの大半はそういうことなんだよね(^_^;)
災害被災者の方々が助かったと口を揃えて述べていることは「温かい飲食物とお風呂とマッサージ」で、緊急支援という名のもとに勝手に押しかけた心理屋などに「お困りごとはありませんか?」とか声をかけてもらうことなんかじゃないんだね。
実はカウンセリングって、カウンセリングのおかげで良くなったり元気になるわけじゃなくて、皆さんカウンセリングとは全く別のところで何かを見つけたり出会ったりして良くなったり元気になりし、結果私達カウンセラーは捨てられていくわけです(^_^;)
カウンセリングというのはカウンセリング以外の何かに開かれていくお手伝いなのかもしれませんね……?
知らんけど……(^_^;)
だからカウンセリングとか、なんとか療法とか、そのもので良くなったりはしないんだよ(^_^;)
そうそう、2004年の新潟県中越地震の際に、お誘いをいただいて、山古志村にボランティアに行かせてもらったことがありますが、いわゆる心理支援ではなく、いちボランティアとして瓦礫やゴミの片付けに行きました。
とはいえ山古志村は交通経路が遮断され陸の孤島となっていました。
片付けても片付けても、片付く気配も見えてこない瓦礫やゴミを前に途方に暮れ無力感に打ちひしがれたのを覚えています。
そんななか、地元の方々(被災者)のあたたかい気づかいや笑顔に助けられました。
なんとか療法とか……かんとか療法とか……たくさんありますが、やはりあたたかさと心地よさに身を置くことが何より大切で、それらが太古から受け継がれている知恵なのでしょうね。
美味しい、あたたかい、うれしい、楽しい、心地よい……に身を置いていくのがよいのですが、いろいろ過酷な状況に身を置いてきた人はかえって落ち着かなくなったりすることがありますね。
何事も「安心、簡単、ゆっくり、笑顔」が大切で、それらが崩れている時……、つまり、不安や怖れが強い、ついついものごとを複雑に考えてしまう、なんか気持ちがザワザワして焦ってしまう、笑顔がなくなる……って時は、飯食って、う○ちして、とっとと寝る……のがいいですね(^o^)
まぁ、だいたいはアレコレ難しいことは考えず、飯食って、う○ちして、鼻ほって、ぴょんぴょん跳ねてたらなんとかなっていくものです(^o^)
知らんけど……(^_^;)