違うということ………
みんな違ってそれでいい……わけないよね(ーー;)
みんな違って厄介しかないけれど、その厄介のなかで生きていくしかないんだね(^_^;)
生まれが違う、育ちが違う、
地域が違う、生活が違う、食事が違う、習慣が違う、価値観が違う、関係性が違う、流れる時間が違う、動きが違う、リズムが違う、タイミングが違う、言語が違う、考えが違う、好みが違う、気になるところが違う、こだわるところが違う、優先順位が違う、文化が違う、倫理感が違う、経済状況気が違う……。
そう、なにもかも違うのです。
このなにもかも違う者同士が暮らしているわけですから、まぁ、いちいちうまくいかないのがあたりまえなんだな(ーー;)
多様性だのダイバーシティだの共存だの……相互理解だの……ときれいごとではどうにもならないよね(ーー;)
多様性とかダイバーシティとか言われても、簡単にはいかないのです(ーー;)
話せばわかる……ハズはなく、たいていは話せばこじれるのが常なわけです。
私達は一見同じように見えても、なにもかもひとりひとり違うわけですが、これを流派が違うと言います(^_^;)
北辰一刀流、柳生新陰流、神道無念流、鏡新明智流、示現流………、剛柔流、和道流、糸東流、松濤館流……などなどのように、流派は山ほどあるわけです。
流派が違うと、え?、なんで???、どうして???、あり得ないだろ!!、そんなん反則やん!!……ってことだらけになるわけで、たいていは自分の流派が正しいとか一番とか思い込んでいるから、厄介なわけです。
違う……ということの厄介はこの、自分が正しい……という頑固な思い込みから、自分の流派以外を排除しようとしたり、自分の流派を押し付けようとするすることから起こるんだな(ーー;)
よく、折り合いをつけて……なんていいますが、譲れないことばかりなので、そう簡単には折り合いなんかつかないわけですね(^_^;)
何かと関わる、誰か(自分自身)と関わるというのは……、つまり暮らしていくこと自体が折り合いのつき難い他流試合なのです。
ごくごくあたりまえの日常のなかで、気になること(こだわるところ)が違うだけで……、うまくいかないし、ストレスになりますが、流派の違う他流試合だと思えば、へぇ〜、ほぉ〜、ふぅ~ん、なるほど~………、おもしろいねぇ……ということが可能になるんだね。
他流試合というのはだいたいは驚きと発見の連続です。
さらに、自分の流派の思い込みと勘違いと自惚れを手放させてくれます。
他流試合は私達に Paradigm Sift (パラダイムシフト)をもたらすものでもあるのです。
みんな違って厄介だよね、面倒くさいよね……というなかで、もやっと生きていけばいいのです(*^^*)