病みが闇を明らかにする

外からは一見何の問題もない何不自由のない家族の抱える問題、闇、病……

わかりやすく虐待やマルトリートメントや機能不全がなくても………、わかりにくい隠蔽された問題の方がたちが悪いんだな。

実は何不自由なく………ではなく、多少の不自由がないとね(^_^;)

子どものために……とか、家族のために……とか、絆が……とかがなかなか厄介ね。

かつて田嶋陽子さんは「愛という名の支配」という著書を、斎藤学先生は「愛という名のやさしい暴力」という著書を、信田さよ子先生は「愛しすぎる家族が壊れるとき」「重すぎる母、無関心な父」という著書を書いています。

支援の現場でも、◯◯しましょうねとか、◯◯いきましょうね……という類いのやさしい暴力や強制、支配の問題が取り上げられるようになっていますが、そもそも支援というのは暴力性や支配性を持つものなんだよね。

「愛」ってのもなかなかの暴力性と支配性を帯びていてなかなか厄介で、呪いや呪縛や信仰に近いよね。

私たちは養育環境(家族)のなかで様々な「呪い」をかけられて育つわけですが、それらの呪いは愛とやらに粉飾されているから厄介なんだよ。

というか、家族内の問題は家族内でも外部に対しても隠蔽され、見ざる言わざる聞かざるになり、ないことにされていることが多いのよ。

「問題」を「闇」に葬ると「病む」ことになるんだよ。

「病むこと」は「闇を明らか」にする役割を持っています。

「病む」ことによって家族の「闇」が明らかになっていくんだね。

「闇」は明らかにされてはじめて「問題」として扱うべきものとなっていくのよ。

だからこそ、いろいろある問題や、さまざな不自由をオープンにできる場所や相手が必要なんだよ。

………てなことで、みんなぁ〜、ウチにおいでよ!